写真と選択不可能性

写真と選択不可能性

テキスト

 最初のインスピレーションから作品の完成に至るまでただ一本の道しか見えない、という天才のような例(そんな例が本当にあるのか私は知らない)は別として、実際の芸術制作は、無数に分岐する選択肢のあいだでの決断の連続だろう。その点では芸術も、その他の仕事や日々の生活と根本的な違いはない。違いがあるとしたら、それら選択肢が、日常生活とは質も幅も異なるということだ。いずれにせよ、芸術は瞬間的なひらめきだけでできているのではなく、そこにはとても具体的な迷いや決断(そしてこれまた日常生活同様、しばしば多くのルーティン)があるということは、芸術とは無縁の人びとにもそろそろ知られるべき頃合いではないだろうか。

 というのも、芸術とは無縁な人びとでも、芸術や芸術家とはどういうものかというイメージは持っているものなのだが、そのイメージがたいていの場合、自分たちとは無縁の、ぶっ飛んだ変なもの(ひと)というものだからだ。芸術にそれなりに興味があるひとの多くが持っているイメージも、じつはたいして変わらない。このようなイメージには、芸術や芸術家を良くも悪くも特別視するという効果しかない一方で、芸術と生活がたがいに無縁のものとして分断される結果、考えるということが本来含む幅広い可能性が芸術家など一部の人間に独占され、活用されないことになる。世の中が、乏しい可能性の使いまわしで営まれるのはよいこととは思われない。

 芸術作品と芸術的思考(これを結果と過程と一般化してもよい)では、当然芸術作品の方が重要である、と思われることだろう。だがそもそも結果と過程はそれほど截然と区別されるものだろうか。制作者と鑑賞者が完全に分断されたのはここ一、二世紀程度のことに過ぎず、しばしばアマチュア芸術家でもあったかつての鑑賞者は、芸術が成立する過程にそれなりに通じていた。鑑賞には芸術的思考が常に寄り添っていたのである。いっぽうこんにちのように、制作と鑑賞が分断されるようになると、かえって制作者は芸術的思考について多くを語らなくなり、「そこにある作品がすべて」という態度を取ることが多くなっていく。このような態度は一見潔いが、けっして普遍的なものではない。(以下 https://www.amazon.co.jp/dp/490932836X/

制作年
作者
満留伸一郎
PROGRESS
STATUS