<h2><span><span> 最初のインスピレーションから作品の完成に至るまでただ一本の道しか見えない、という天才のような例(そんな例が本当にあるのか私は知らない)は別として、実際の芸術制作は、無数に分岐する選択肢のあいだでの決断の連続だろう。その点では芸術も、その他の仕事や日々の生活と根本的な違いはない。違いがあるとしたら、それら選択肢が、日常生活とは質も幅も異なるということだ。いずれにせよ、芸術は瞬間的なひらめきだけでできているのではなく、そこにはとても具体的な迷いや決断(そしてこれまた日常生活同様、しばしば多くのルーティン)があるということは、芸術とは無縁の人びとにもそろそろ知られるべき頃合いではないだろうか。</span></span></h2>
<h2><span><span> というのも、芸術とは無縁な人びとでも、芸術や芸術家とはどういうものかというイメージは持っているものなのだが、そのイメージがたいていの場合、自分たちとは無縁の、ぶっ飛んだ変なもの(ひと)というものだからだ。芸術にそれなりに興味があるひとの多くが持っているイメージも、じつはたいして変わらない。このようなイメージには、芸術や芸術家を良くも悪くも特別視するという効果しかない一方で、芸術と生活がたがいに無縁のものとして分断される結果、 . . . </span></span></h2>
<p><a href="https://note.com/four_d_magazine/n/n938cf369931b">https://note.com/four…;
<h2> 琳派と聞けば誰もが、たとえば光琳の「紅白梅図屏風」なり「燕子花図屏風」なりのことを思い浮かべるとして、頭のなかに思い浮かぶそのイメージに付随しているのはどのような感覚だろう。繊細さ、と言ってしまえば月並みだが、その感覚を慎重に腑分けしてみると、その他の大和絵や狩野派などに比べてさえいっそうシャープな輪郭(じっさいに輪郭線を描くかどうかは別にして)や、純粋なデザインにまで達しかねないある種の表層性が、「琳派らしさ」を支えているように思える。山や月や川が大胆に抽象化されていても、じつは草木や虫や動物たちはおどろくほど細密かつリアルに措かれているのだが、それらリアルな生き物たちも、西洋芸術を取り入れたあとの我々が思うリアルとは何かが違う。</h2>
<h2> まるで対象がそこにあるかのような効果を追求した西洋絵画のイリュージョニズムは、遠近法はもちろんだが、油絵具の導入によって最終的に達成された。その本質はまるで光を溜めこむことができるかのような肉厚さにある。しかし日本画、さらにはそのある意味での究極にある琳派(ジャポニズムの多くは琳派的なものに由来しているのではないか)の画面は徹底的に薄い(金箔!)。そしてそこに描かれたものがいくら具象的でも、和紙や顔料の素材感がかならず感じられる。奥行きを描かないことで、琳派はその表層性をさらに徹底させた。</h2>
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<p>美術において写真がないという事態は考えられない。 『写真美術誌 OSTEN PHOTOGRAPHY』は、彫刻をする者、陶芸をする者、写真をする者、著述をする者etc.が、美術・芸術における写真がなんなのかを、写真の機能・役割を意識しながら、自らの美術・芸術に関わる写真について表現するものとして創刊された。 主として2019年以降の美術の場を、その表現の場としてはいるが、それ以前の美術の状況等を無視するものではない。 一方の極に基盤をつくる技術者を念頭に置きつつ、美術・芸術・アートにとっての写真とはいったいなんであり、そして、なんであり得るのかについて、探っていくこととしたい。</p>
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